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時代の画壇を貫く土牛の歩み
奥村土牛(おくむら・とぎゅう、明治22年~平成2年:1889~1990)は、現代の日本画の画壇を代表する日本画家の一人です。
胡粉を100回、200回と塗り重ねる技法によって、画面に奥深さと微妙な色調を表現する作風は評価が高く、特に有名な「富士山図」は皇居内にも展示されています。
土牛は明治22年の東京市・京橋区生まれ、本名は義三(よしぞう)です。
病弱だった土牛は、尋常小学校高等科を中退しますが、そのすぐ後の16歳のときに梶田半古の画塾に入門したことから、日本画家としての人生がスタートします。
ここで、当時の塾頭であった小林古径という師を得たことで、入塾翌年の明治39年の日本絵画展覧会では「菅公の幼時」が、翌40年の東京勧業博覧界では「敦盛」が入選するなど、早くもその非凡な画才で頭角を現わすことになりました。
28歳になった大正6年には、父親が営む出版社から初の画集「スケッチそのをりをり」を上梓します。
このときから名乗っている「土牛」の雅号は、丑年の生まれにちなみ、父親が中国の寒山詩の「土牛石田を耕す」から命名したもので、生涯にわたる創作へのスタンスを貫く矜持ともなりました。
昭和に入ると、古径の影響が見られる線の強い画風は、豊かな色彩表現に主軸を移した画風へと変化し、戦前の代表作とされる昭和16年の「遅日」などに結実したのです。
「富士」のテーマに込められた探求心
昭和20年5月の戦時下では空襲で自宅が全焼し、土牛は家族の疎開先である長野に移ることを余儀なくされました。
こうした創作活動のままならない時期を経て、戦後の土牛は静謐さの中にも野心のある作品を発表し続けます。
雅号そのままに、牛歩のごとく着実な足取りでたゆみない努力を続けた土牛は、平成2年(1990年)9月、101年の長きにわたる生涯を閉じました。
ひたすら描くことに専心する情熱と、新しい芸術を模索する土牛の旺盛な探求心は、晩年もついに衰えることがなく、まさに「画聖」の名にふさわしい生涯だったと言えるでしょう。
戦後の代表作としては、昭和28年「聖牛」から、同31年にはバレリーナ谷桃子をモデルに描いた「踊り子」、同32年と同55年で同題の「浄心」ほか、精力的な創作活動の軌跡を一望できる作品群が多く知られます。
晩年、富士山をテーマとした作品がライフワークとなったことは、その制作風景とともにテレビでも紹介され、描くことへの貪欲な姿勢、鋭い眼差しが強烈な印象を与えました。
平成2年の「平成の富士」が絶筆となった土牛の画家人生は、その輝かしい経歴や作品以前に、極め尽くせない富士の頂を目指して一歩一歩と研鑽を積む姿そのものに重なるようです。
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