貧しても 鈍しても 欲しい名物茶器 高価買取
2014/2/27 19:32
茶道の開祖といわれた村田珠光の弟子に、松本珠報という茶人があった。彼は、初め室町幕府の重臣山名の家老を勤めたり、畠山政長 に仕えたりしたが、応仁の乱以後は、引退して、奈良に住み、珠光に茶道を学んだ。
のち、京都に戻り、東洞院西条に閑居し、ひたすら茶事をたのしみ、余生を過ごしたと言われる。
この珠報の庵のほど近くに清水があった。かれは、夜ごとに、手桶を引っさげて、茶の湯を汲みに行ったが、ある夜のこと、帰宅の途中で、東の空が、しらじらと明け始めた。そこで、彼は、おのれの姿を人に見られるのを恥じ、手桶を道端に投げ捨てて、我が家に駈け戻った。その様子を見た人が、気の毒に思い、捨ててあった桶に水を満たし、送り届けたという。 (山州名跡志)
この逸話を、普通に解釈すると、松本珠報が、当時、非常に貧乏していたため、乞食同然のわが姿を人に見られることを恥じ、逃げ帰ったということになるが、しかしながら、彼は、数々の名物茶器の所有者としても世に知られていた。
例えば、呂紀の連鷺の図、松本茄子、松本肩衝(松屋肩衝)、松本瓢箪(上杉瓢箪)、松本青磁(松本茶碗)、存星長盆、長盛作堆朱香合などを持っていた。
晩年には、そのような物も売ってしまっていたにせよ、人目を盗んで夜中に水を汲みに行くほど乞食同然の身なりをしていたとは、考えられない。
これは、おそらく、茶の水のありかを秘密にしていたのであろう。だから、深夜にこっそりと、汲みに行った。そうして、夜が明けたので、秘密の露見を恐れたものとみえる。
珠報の隠していた清水は、のちに、そのありかが発見されて、松本の井と称し、その庵址と共に、永く保存されたが、安芸(現在の広島)の大名浅野長晟が京都屋敷を建てるに際して、取り壊されたという。
昔の茶人が、ひそかに愛用し、そのありかの露見を嫌った茶の水は、これを、名水、または、何々の井戸と称して、あちこちに、その遺蹟がある。
その中で、西洞院三条の柳水、六条堀川の醒ヶ井、北野の利休井、宇治橋三の間の水は、最もいわれが深い[茶道の逸話より]
古美術品のコレクターさんの所に遊びに行くと、お世辞にも裕福とは言えない家、もしくは部屋だったりします。(勿論裕福な方も沢山いらっしゃいます)
しかしながら、そのコレクションを拝見すると、思わず涎が出て、唾を付けたくなるものばかりという事がよくあります。
そのドヤ顔が嬉々としていて、大好きです。
時々自分は、商売人ではなく、コレクターであれば、これ程の苦悩を背負う事はなかったのでは?と自問自答する事があります。
自分の大好きな古美術品を売らなければ生活出来ない。生活の為とは言え、この品物を手放してよいのだろうか。商売人だから、非売品なんてあり得ない。などなど…葛藤しております。
しかしながら、お客様宅に訪問し、その姿を拝見すると、自分にはここまで一つの品物に惚れ込む事が出来ただろうか、そこまで惚れ込んだこの人達は凄い!羨ましいと思うのです。
そして自分にしか出来ない事もあるのが、この古美術品商という仕事なのだと思い直し、前を向きます。
古美術品を愛しておりますので、価値のある品物を安い金額では買いたくはありません。古美術品に対して失礼だと思うのです。
そんな想いが、
『 高価買取専門店アワードにて、3年連続グランプリ受賞 』
を生んだのではないかと、ちょっとは自分が誇らしく思えました。
古美術品の買取は、グランプリ受賞の東京日本橋1丁目に店舗を構えます、古美術天宝堂にご相談下さい。