怨念を受けても買取したい喜左衛門井戸茶碗②
2014/4/9 11:52
家康からどのような経緯で次の所持者に渡るか不明ではあるが、喜左衛門井戸は別名、本多井戸とも呼ばれ、茶碗は本多家三代目頃に伝わるが、本多家は六代目で廃絶となる。
その次に伝わったのは、中村宗雪が所持した。享保年間(1716~36)の半ば頃の話である。
宗雪が没したのは、1737年である為、十年程手元にあったようである。
しかし、次に伝わった塘家へ移った事情も明らかでない。
諸説ではあるが、喜左衛門井戸を所持出来る程の有力商家であったはずの塘家は没落したといわれる。遊女屋の下働きになり、腫れ物を煩い、死を迎えたようである。
その後、骨董商を営む、山越利兵衛の元にどのような経緯で伝わったか不明ではあるが、山越利兵衛は、松江藩の第七代藩主、松平治郷(号:不昧)に金、五百五十両で売った。
その頃には、この茶碗のいわくが広まっていたため、家臣達が猛反対したそうだが、不昧の心を動かすには至らなかった。
不昧は、「天下の名物なり。永々に大切にいたすべきものなり」と命じた。 俗説のせいか、三十余年の愛蔵期間中、不昧は一度も喜左衛門井戸を茶会で使わなかったらしい。
しかしながら、不昧も腫れ物を煩い、幸い命取りにはならなかったものの、夫人は不安に駆られ、処分することを夫に迫った。しかし、生前、ついに不昧は手放さず、茶碗が松平家を出たのは、不昧の死後であった。子息斉恒がまた腫れ物にかかった為といわれている。
一部の方には気になられる古美術品の霊障。小さな頃から古美術の世界におりますが、40数年そのような事はおこってはおりません。
信じていないわけではありませんが、怨念があったとしても買取したくなる井戸茶碗です。
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