怨念を受けても買取したい喜左衛門井戸茶碗①

2014/4/9 11:49

慶長十六年(1611)三月十八日、加藤清正は浅野幸長とともに、京都二条城に赴いた。

駿府から上洛した家康に対面する豊臣秀頼に供奉したのである。当時、秀頼は十九歳。

父の秀吉が没してすでに十三年が経過し、武将たちも東西にわかれ、徳川・豊臣両家の対立が日ごとに強まっていた頃である。

清正は幼い時分から秀吉に仕え、賤ヶ岳合戦でのいわゆる七本槍の一人としての活躍をはじめ、数々の武功をたて、重く用いられていた。

肥後の半国二十五万石を与えられ、熊本城主となったのも秀吉の信任を得たためである。

秀吉の死後、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦では東軍(徳川側)につき、九州で西軍方の小西行長・立花宗茂らの城を討ち、家康に賞せられ五十四万石の大大名になった。

しかし、秀吉の恩顧は忘れず、豊臣家の将来を憂えており、武将たちのあいだにあってもその立場はきわめて微妙であった。

二条城訪問の行を共にしたのも、万が一の事態にそなえ、秀頼の安全を守るのが最大の目的であった。

家康はねんごろに秀頼をもてなし、清正と幸長にも盃と刀とを授け、茶でもてなした。

ところが、大役をはたした清正が発病する。

海路帰国の途について船中のことであり、熊本へ戻り、二日三日たつと、「舌不自由にして物云う事勝手ならず、脈もよろしからず」(続撰清正記)といった危篤状態に陥り、六月二十四日、肥後熊本城で病死した。享年五十一。

家督は子息の虎藤改め忠広につがれ、徳川家康の計らいで、旧領も無事安堵された。が、いつとはなく、清正の死因をめぐって奇怪な噂が起こった。

徳川家の謀略による毒殺であり、それに使われたのが、大名物の茶碗、喜左衛門井戸だ、というのである。

噂の発生した正確な時期は定かでない。しかし、茶碗のことは別として、毒殺の話は細部こそ異なっているが、『高野春秋』『摂戦実録』『十竹斎筆記』など、多くの近世の書物にみられる。たしかに、清正の死には人々の疑惑を招く唐突さがあった。

それ以降の喜左衛門井戸の所持者には、怨念とも言えるような様々な出来事がおこった。

 

一部の方には気になられる古美術品の霊障。小さな頃から古美術の世界におりますが、40数年そのような事はおこってはおりません。

信じていないわけではありませんが、怨念があったとしても買取したくなる井戸茶碗です。

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