大津絵 がいつ誕生し、いつ衰退していったのか、その秘話に迫る!

2020/11/3 18:12

①大津絵 誕生の背景

京都の東大路通りに、仏画師、仏師、仏具店などの仏教系のお店が軒を並べていたが、豊臣秀吉が京都の都市改造政策を発令、1590年頃に東大路通の仏画師達は、滋賀県の追分(おいわけ)、現在の大津市の逢坂(おうさか)へ移動させられるという説がある。

この仏画師が日々の糧を稼ぐ為、試行錯誤を繰り返し、大津絵を誕生させたと考えられています。

1624年(寛永元年)に東海道が整備され、人々が安全に街道を往来する事が出来るようになると、

お伊勢参りが一般化し、伊勢神社に所属する御師(おんし)が、全国各地に派遣され、伊勢講というシステムを手助けし、参詣者を案内し、参拝、宿泊などの世話をする事により、農民でも一生に一度はお伊勢参り出来るという大人気旅行プランとなった。

おかげ年という、『神様からの恩恵をもらう』としてお蔭参り(おかげまいり)という言葉が誕生し、

大規模な流行は60年周期で繰り返された。

1705年・・・362万人(50日間で)、年間累計はもっと多いと予想される。

1771年・・・486万人

1830年・・・半年で460万人(486万人とも) 人口の6分の1

↑この辺りの数値は研究者によって異なる為、正確な数値は不明だが、農閑期には数百万人の伊勢参りの参拝者がいたことは間違いないであろう。

そのような背景から旅人に売るお土産物に信仰を前面に押し出した仏画の需要が高まった事は想像に難くない。

 

②大津絵の貨幣価値

大津絵は蕎麦一杯分の値段として売られていたと言われる。

江戸時代中後期は、なんでも19文というお店で大津絵が売られており、二八蕎麦で蕎麦が16文で売られていた事から、その時代の大津絵も現在の貨幣価値に換算すると500円~600円程だったと思われる。

江戸時代は物価の変動がそこまでなかったとの事なので、長い期間庶民のお土産品として供給されていたと思われる。

 

③大津絵の画題

『初期大津絵』・・・大津絵は仏画師が描き始めたというのもあるが、信仰篤い人々を相手にする事もあり、仏画が描かれた。

『前期大津絵』・・・浮世絵の登場もありスラッとした浮世絵風人物などが描かれる。

『中期大津絵』・・・世の中の不満、うっぷんから風刺画や滑稽画が描かれる

『後期大津絵』・・・実用的な護符の意味合いの持った物が描かれ、大きさも小さくなる。狂歌や俳諧の入ったものも登場した。

『復興大津絵』・・・江戸末期、衰退した大津絵を復興しようとして、「関泉園」なるお土産屋が登場した。

 

④最古の大津絵

大津絵がいつの時代から描かれ始めたというのは、正確には判明しておりません。

1638年には伊勢参りが一般化された事もあり(下飯盛の太神宮碑)、1637年には島原の乱もあり、28万人近く処刑されたキリスト教徒の宗門改めから逃れる手段として、安価で手に入る大津絵の仏画は需要があったと考えられます。

年号の分かる最も古い大津絵は、万治四年の年号の入った物があります。

実際には万治四年という年号は存在しないので、勘違いからと思われますが、1661年と推定し、

位牌に書かれた年号という事で、購入時期はそれよりも前と考えられます。

半紙サイズ2枚を継ぎ合わせた初期大津絵の前段階に最初期大津絵というのが存在し、最大では四枚の半紙を継ぎ合わせた物があります。

以上のことから、1630年代後半から40年代の前半には大津絵は誕生したのではないかと考察しております。

最も時代の若い初期大津絵で「延享3年(1746年)」の年号の入った物もあるので、100年近く、仏画の画題を描いたと思われます。

また、浮世絵の祖と呼ばれる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が、天和2年(1682年)に刊行した「浮世絵百人美女」や、翌年に刊行した「美人絵づくし」が評判高く、それらを取り入れた大津絵が前期大津絵と呼ばれる浮世絵風大津絵として、仏画の制作と同時進行で行われました。

江戸中期になると、人気大津絵十種と呼ばれる物が確立します。

・鬼の念仏(子供の夜泣きを治める、悪霊を払う)

・藤娘(良縁に恵まれますように)

・外法と大国の梯子剃り(長命、百事如意)

・雷公の太鼓拾い(雷除け)

・座頭(倒れぬ符)

・瓢箪鯰(諸事円満解決し、水魚の交わりを結ぶ)

・槍持奴(道中安全)

・長刀弁慶(身体剛健にして、大金を持つ)

・鷹匠(利益を収め、失せ物手に入る) ・・・男性の同性愛者にはブロマイド的な要素もあったらしい。

・矢の根五郎(目的貫徹、思い事叶う)

上記の人気十種以外にも人気があったであろうと考えられている大津絵があります。

大英博物館に収められている、『為朝』には「拾四枚之内」と墨書きされた大津絵があります。

その外にも鬼の念仏、長刀弁慶などの作品にも同じ筆跡の墨書きが存在し、当店が所蔵する『鍾馗』にも同じ墨書きが存在します。

人気十種以外にも、四種の人気画題があった事を示す資料として大変興味深い大津絵です。

 

⑤大津絵の題材

大津絵の題材は100種類を超えているとよく言われますが、正確な数はまだ把握しきれておりません。

私も新発見の題材を2~3年毎に一回で見出しておりますので、少しづつではありますが、数は増えてきております。

今現在では、その存在が確認されていない大津絵を含めたら、130種類の題材が確認されておりますが、

個人的見解ではありますが、最終的には160種類を超えるのではないかと思います。

大津絵は実演販売が基本でしたので、お客が「鬼の念仏描いてくれ」と注文を入れると、その場で描き、販売していたと考えられています。

 

⑥大津絵の特徴

半紙サイズの紙(30×20cm)を二枚継いだものを使用。

最初期の大津絵には最大4枚継ぎも見られる。

手早く描く為に、型紙を使った、合羽摺(かっぱずり)で作成。

この合羽摺は、型紙に刷毛でサッと色を塗るという浮世絵にも通じる技術でした。

仏画の顔の部分は、判子を使用。

コンパス、定規なども使用。

泥絵の具と呼ばれる安価な材料で、七色位使われた。

墨、丹(朱)、胡粉(白)、黄土、緑青、金泥、(丹と胡粉を混ぜてピンクを作ったりもした)

 

⑦大津絵の終焉

一時は浮世絵よりも一世を風靡した大津絵ですが、次第に人気は浮世絵に移ってしまいます。

江戸後期になると、さらに手間を省き、線の細いラフな大津絵が描かれる。

江戸末期には、復興大津絵と呼ばれる関泉園が人気大津絵十種を描くだけの店となってしまいます。

明治時代に入り、明治政府が御師の活動を禁止した為、民衆の伊勢神宮への参拝熱は冷めてしまいます。

「おかげ年」にあたる明治23年(1890年)の新聞には「お蔭参りの面影もなし」という内容の記事が掲載されました。

それでも年に50万人規模の参拝者はいたようですが、1880年代後半には東海道線、関西鉄道などが完成し、徒歩での参拝者も激減し、大津宿を通る人々が減り、大津絵は明治中頃には廃絶していったと考えられます。

 

こちらの文章は、古美術骨董雑誌 目の眼 2020年11月号 No.530に掲載されております、脳科学者、茂木健一郎様との対談用に作成した物です。

対談内容は、「目の眼」の美の仕事をご覧下さい。

また、現在、東京駅にある美術館、東京ステーションギャラリーで、大津絵展が開催されております。

当店も大津絵展に協力しております関係で、「大津絵の事なら天宝堂さん」と白羽の矢がささり、今回の対談が実現致しました。

 

大津絵の販売と買取の事なら、古美術天宝堂にお任せ下さい。

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