世界有数の大津絵取扱い業者が教える大津絵とは①
2022/6/17 17:43
大津絵とは、現在の滋賀県大津市、昔の追分あたりで売られていたお土産絵です。
追分という地名から、一昔前は、追分絵とも呼ばれていました。
日本民藝館の創設者の柳宗悦によって取り上げられ、昭和の始めに一躍脚光を浴びる事になりました。
柳に大津絵を紹介したのは、内田六郎や米浪庄一。
数寄者の間では、大津絵を持つ事が一種のステータスとなり、柳も入手に困難する程、高額で売買されていたようです。
そもそもの始まりは、江戸の初めに、京都の東大路通界隈で仏画師を営んでいた人々が、豊臣秀吉の行った区画整理の為、追分に追いやられ、当時は正当な仏画を描いていたと思われますが、需要がなく、宿場町で旅人を相手に、安価な仏画を描き始めたのではないかと言われています。
キリスト教の弾圧により、キリシタンと思われないようにする為に、安価な仏画はよい隠れ蓑となり、需要が高まったのではないかとも言われています。
江戸の初期に描かれていた仏画から、江戸の前期頃になると、初期浮世絵風のスラリとした人物の大津絵に画題が移り変わっていきます。
浮世絵と大津絵は、ライバルだったのて、互いに売れる要素を取り合い、浮世絵でも大津絵を題材とした物を作り、大津絵も浮世絵の真似をした人物を描いたのです。
江戸の中期頃になると、次第に世の中を風刺した題材となり、鬼の念仏は、偽善者(鬼)がいくら信心しても結局は鬼だ。というように皮肉を意味する大津絵が作られました。
そして、時代が移り変わり、江戸の後期には、鬼の念仏は、子供の夜泣きを抑える夜泣きの護符の意味を持つようになります。
当店では、そんな江戸時代の大津絵に注目し、特に力を入れて取り扱っております。
様々な美術館、博物館に大津絵を貸し出し、納品もしており、大津絵の審美眼には定評頂いております。
大津絵の買取、または、大津絵の販売に関しては、東京日本橋、古美術天宝堂にお任せ下さい。
画像は、フランスパリで開催された大津絵展に当店から貸し出した大津絵(不動明王、荷物奴、瓢箪鯰、釣り鐘弁慶、金太郎)を渡仏し観覧する代表増田。
脳科学者の茂木健一郎さんに大津絵の取材をして頂いた雑誌、目の眼の特集記事。