梶田 半古(かじた はんこ)
2014/4/14 13:17
梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日(1870年7月23日) – 1917年4月23日)は、明治時代から大正時代の日本画家。本名は錠次郎(ていじろう)。初めは英洲と号す。二度目の妻は尾崎紅葉門下の閨秀作家北田薄氷
明治3年6月25日(1870年7月23日)、彫金師の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。家は代々幕府の鷹匠だったが、父は彫金を業としたという。家業は弟が継ぎ、幼少から画才のあった半古は1883年(明治16年)、13歳の時、浮世絵師で楊洲周延の弟子・鍋田玉英について絵を学ぶ。一時、眼病により絵画修業を中断し琴や月琴で身を立てようとするが、一年程で病は癒え再び画道に戻る。
1885年(明治18年)、15歳で今度は鈴木鵞湖の子で石井柏亭・鶴三の父にあたる南画家・石井鼎湖に就いたが、同年に父が亡くなったためこれを中断する。半古は家族を養うため、松尾儀助らが横浜で設立した日本の工芸品輸出会社「起立工商会社」で、工芸品の下絵を描いていた。この会社で同じく図案を描いていた菊池容斎の門人・鈴木華邨に師事、華邨から菊池容斎の木版画集『前賢故実』を紹介され、全図を暗記するほどまでに模写、独学で人物画を修得している。この成果が早くも同年の東洋絵画共進会で褒状という形で現れ、その後1891年(明治24年)日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成に発起人の一人として加わる。
1896年(明治29年)日本青年絵画協会が日本絵画協会に発展し、また1898年(明治31年)には日本美術院が創立されるに及んで、特別賛助会員となって活躍。両会連合の共進会に『春宵怨』(1902年(明治35年))や、『豊年』(1903年(明治36年)現在所在不明)など浪漫的な作品を発表、類型的な旧派の作風に抗して斬新な写実表現に力量を示し、新日本画の開拓に挺身した。1907年(明治40年)の文展開設後は、自身の健康状態の悪化もあり、審査員に選ばれず、作品も一切出品していない。1917年(大正6年)4月11日より重体に陥り、弟子たちは隣の家を借り、垣根を取り払って看病に努めたという。しかしその甲斐なく、4月23日肺患により死去。享年48。墓所は巣鴨の染井霊園にあり、傍らには弟子の小林古径の筆になる「梶田半古先生之碑」が立っている。